ルールや法律は感情によって作られる、という話。

ルールや法律ってのは感情から作られている。例えば人間が誰かにモノを盗まれても怒らないようなら「窃盗禁止」って法律はできてないだろうし、誰かに人助けされるのが嫌で怒りを感じるなら「人助け禁止」って法律ができていると思う
交差点に信号機がついてるのは事故を防ぐためだけど、それは事故に合うと痛くて悲しいからであってもし事故に合っても問題ない人の方が多かったら信号機なんてついてない。
#### 全ての法律は人間の感情が元になっている
まず最初に感情が来て理由は後付けされる。
「なんか嫌なんだけど!」
「なんで?」
「えーっと…。だって○○は××だし…。」
と理由付けられる。東京都の「非実在青少年規制条例」なんてまさにそれ。理は反対派にあるが、論理で勝っても相手の感情は変えられないので防戦一方である。
金融関係の法律もそうで「俺が真面目にやってるのに、あいつはズルして設けやがって!」という感情・嫉妬心から作られている。よってホリエモンが逮捕されたのはある意味自然である。ホリエモンは軽い違反しかしてなかったとしても、それ以前の言動が一般人の反感を買ったので逮捕まで至った。だって法律は人間の感情に理由をつけるために存在してるんだから。
#### 感情が法律にコントロールされてはいけない
法律は人間の感情に即して作られているから、もし違和感を感じたなら疑うべきである。"法律で決まってるから"と思考停止してはいけない。
例えば電車内での携帯電話。ルールでだめと決まっているが、疑問に思いつつ従ってはないだろうか?もちろん電車内での携帯電話使用はそれなりの理由がある。ペースメーカーに影響を与えると言われているし、2人の会話を聞くより1人の独り言を聞くほうが人間は不自然に感じる、というデータもある。
しかし携帯電話によってペースメーカーが誤作動した事例はないらしいし、人によっては車内の小声の携帯電話より隣の人のヘッドホンの音漏れやおばちゃん同士の会話の方が不快に感じるだろう。法律で決まってるから携帯電話への風当たりが強くなり、まるで正義の味方のように携帯を目の敵にする人が増え、結果、トラブルが発生している。こういう人は例えば明日から電車内でのヘッドホンが禁止されたら注意し始めるのだろうか?今まではなんとも思ってなかったのに?まさにルールの手下である。
※ [甚之介の剣道雑記帳: 事例なし=安心とは限らない](http://pub.ne.jp/yachiyo_kendo/?entry_id=2991660)で「安全宣言するのは簡単ですが、安心は与えられませんから。」と書いているが、本当に安心を与えたいなら「携帯電話の電波は影響ない。ペースメーカーは大丈夫」と真実を伝えるべきだろう。だって携帯電話以上に電波の飛び交う日本ですよ。ペースメーカー使用者に不安を与えているのは何なのか。科学的根拠なのか?あるいは"ペースメーカーは脆弱"を前提としたルールなのか?


こんな事を思ったきっかけは、twitterのとあるハッシュタグ向けに過剰に宣伝しているアカウントがあって、確かに内容は合致してるんだけど投稿数が多すぎてそのアカウントフォローしているのと同じになっちゃってた。で、そのハッシュタグ見る意味なくなっちゃってた。
僕以外の誰かがこれって荒らしって言うんですか?とpostしてたので、僕は**『ネットにおける「荒らし」の定義はやってる人に悪意があるかどうかじゃなくて、コミュニティ参加者が不快に思うかどうか。』**みたいな事を言ったんですが、これって要約すると「俺が荒らしと思ったら荒らしだ!」ってむちゃくちゃな理論なんですよね。
けどこれが"ルール"の源泉で、誰かが不快に思ったからルールが作られる。それはネットコミュニティを見てると分かりやすくて古くからはBBSは2ちゃんねる、今はtwitterで公式・非公式RTの議論が出てお互いの派閥がいろいろ理由つけてますけど、全部自分が不快だからってのがスタートで、理由はそこまで大したものじゃない。僕が公式RTが好きじゃない理由って「自分がフォローしてない人の発言がTLに現れるのが嫌」ってだけで論理的ではないですし、非公式RT好きじゃないもの「in reply toで辿れないし自分のリプライタブが埋まってムカつく」ってものですから。
そう考えるとネットでの議論が平行線を辿るのは分かる。顔の見えないネット上では論理的にしか議論できず根っこの感情にたどり着いてないんだもの。
ということで結局人間の行動原理は感情で、説得ポイントを見誤ると意味がないどころか状況を悪化させかねませんよ、というエントリでした(無理やり纏めた)